ただいま出張中 


26.一冊の本

 

帰国後、年が明けてJICAへの帰国報告も済ませた。特段の問題はなかったが、正式な説明・議論は来週開かれる作業監理委員会で行われる。

 

年明けの1月8日、北大で行われた講演会で私の出身学科の助教授より、「こんな本があるんですよ」、一冊の本を紹介された。「禁じられた稲−カンボジア現代史紀行」(清野真巳子著)という本である。この本は昨年11月に出されたもので、アジアの氾濫原水稲地帯で主に栽培される「浮き稲」とポル・ポト政権の執った農業政策、そしてその施策全体がいかにカンボディアの伝統と農民の意志を踏みにじった形で行われたか、また、その独裁政治の中で粛正されまた生き残った闘士たちの生き様に焦点をあてて、現地取材を通じた現代史紀行文として仕上げている。

 

この本の中では、私がカンボディアでお会いした幾人か、そして訪れた土地が登場する。JICA専門家の川合氏、水資源気象省次官補のベン・サコン氏(この人は私は50過ぎだと信じて疑わなかったが、実際は私より若い41歳と知って驚いた)に至っては、「ある水官僚の半生」と、一章を割いてその生い立ちが書かれていた。

 

前半部分では、ポル・ポトによって進められた農業政策がどんなものであったか、そのために作られたポル・ポト水路がいかに問題を抱えたものであったか、そして、そのポル・ポト水路に対する農民の思いはいかなるものか、そういったことが書かれている。

 

私は、今般の調査最終報告を行う来週の会議の前に、是非ともこの本を読んでおくべきと考え、調査団員全員にメールを出して、読まれることを奨めた。なぜならば、我々の調査の目的は、ポル・ポト時代に建造された灌漑施設をいかに改修し、利用するか、そのモデル計画を提案することであったからだ。その計画が、この本に書かれているカンボディアの現代史の背景を反映したものになっているかどうか、私は一部でも確認せずにはいられなかったのである。

 

読後、私が理解する限り、私たちの計画は十分及第点を取れていると感じた。設計図も報告書もないポル・ポト水路(設計者には完成後殺された者も多いという。設計図書がないのは当たり前だろう・・・)の「遺跡」から設計者の意図を読みとるのは、考古学者にでもなったかのような気の遠くなる作業だった。規模を決定した根拠もわからなければ、どこまで改修べきかも、すべて自分たちの調査で明らかにしなければならず、しかも短期間で計画を立て設計をしなければならなかった。

 

私が、自分たちの立てた計画を「正しい」と言い切れるのは、ポル・ポト水路の誤りをしっかりと見極めたうえで計画を立てたこと、「浮き稲」こそ提案はしなかったが、地元農民の意向を100%聞き入れた作付計画を提案できたことが大きい。

 

私はカンボディアの貧農を、ときに「selfish poor farmer」(身勝手な貧農)と呼んだが、この本で紹介されている「フー・ユオン」(クメール・ルージュの高官。農民の高い支持とポル・ポトへの強い批判から、「反乱分子」として粛正された)も、「悪しき伝統である個人主義」と書いているように、カンボディアにおける組織化というのは実に難しい。こうしたことを念頭に我々が取り入れた計画アプローチは、フー・ユオンの「ゆるやかな共同作業の導入」と、相反するものではない。

 

あの暗黒のポル・ポト時代、農業施策の背景には、「緑の革命」といわれた「高収量」の水稲品種の出現がある。ポル・ポトは洪水氾濫をうまく利用して行われてきた伝統的な「浮き稲」の栽培を禁止し、灌漑排水施設建設による高収量品種の栽培を強制した。クメール人には好まれない味の高収量のコメと引き替えに武器を仕入れるためである。コメは自国民に食べさせるものではなく、自らの野望をかなえる手段にすぎなかったのだ。そして、そんなコメ増産施策は当然のごとく失敗に終わり、過酷な労働で疲弊した多くの国民が飢餓と栄養失調で死んだ。

 

私たちの調査対象地区であるタケオ州西部には「浮き稲」はない。そこはメコン川の洪水氾濫の影響を受けない地区である。しかし、逆にこの本に書かれいる減水田地区よりも土地所有面積は小さく、灌漑施設がないために収量も極端に低い。まさに極貧地区なのである。

 

私たちの作った計画が、これらカンボディアの農民に利用され、少しでも役立てば至上の喜びである。

2002年1月14日

 

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