「川添西」と呼ばれるその地区は、当時道路は未舗装で、水道はもちろんのこと下水さえも整備されていなかった。
今はすぐそばに地下鉄東西線琴似駅がある。
そこで開業医の4子目、末っ子として僕は生まれた。お産の時にはソリで表通りまで運ばれたそうである。
当時、家の前には「かんの」さんの邸宅があり、その庭に時々忍び込んでは蝉の幼虫を捕っていた。見つかると叱られるが、出てくるときには必ず、顔におっきなほくろのある「かんののおばさん」が、さいころキャラメルやら野球ボールチョコ、なんかを持たせてくれた。慣れない自転車で全速力で走り、後方に舞い上がる土煙に悦に入った。また、急ブレーキをかけては後輪をスリップさせ、舞い上がる土煙にまた跳び上がり、そのうち「かんの」さんの家の生け垣につっこんで太股を切ったが、その傷は40年近くたった今も残っている。雨が降れば水たまりに自転車をおいて「スタンド」を立て、ペダルを思いっきりこいで後方に跳ね上がる水しぶきにまた、悦に入った。尺取り虫をとっては友達の背中に入れ、カタツムリを塀に這わせては、遠くからみんなで石を当ててつぶし歓声を上げた。
夏に盆踊りが行われた家の前の「千秋庵の空き地」には、松の木や三つ又に分かれた木があって、その上に「基地」を作って遊んだ。夏休みには必ず「きもだめし」をやったし、そのたびにカンテラを作るのが楽しみだった。缶蹴りやキャッチボールもよくやった。野球ではなぜか「巨人」と「阪神」ではなく、「大リーグ」と「大リーガー」というチームに分けていた。
そして、その空き地には、現在ダイエー琴似店がある・・。僕の浪人(予備校)時代にダイエーが建ち、そのあとの地下鉄工事で我が家の井戸は涸れた。
夕食を済ませるとすぐに表に出て、父親や姉、兄と暗くなるまでバドミントンをした。赤とんぼうがものすごい数で飛んでいた。家の電話が鳴り、一丁先の家まで「電話ですよ〜」と取り次いだりもした。そんなとき、その家のお母さんは近くの繁華街にホステスとして働きにでるところだったり、その食卓にある、白いご飯と梅干しだけの「夕食」に驚いたりもした。冬は冬で、「親にほめられたい一心」で、病院の前の雪かきを一人でし、表通りの佐々木商店か裏通りの長谷部商店で褒美に「三色アイス」を買ってもらうのが楽しみだった。風呂から上がると、必ずしもやけの足にオロナイン軟膏を塗って母親手編みの毛糸の靴下を履き、父親が用意してくれた「鞍下」を抱いて寝た。足には、いまでも鞍下による「低温やけど」の跡が残っている。4人兄弟、みんな同じようなあとがある(はず・・)。朝起きると、蒸発皿の水が凍るくらいの寒さ。父親がストーブに火をくべて、ペチカが暖まった頃を見計らって「さささ〜」っと我先にペチカに近寄り、背中をあてた。「アチチチチ・・」。
小学校で冬には毎週行われたスキー学習では、家からスキー靴を履いて登校した(いまから考えると、「信じられない距離を歩いて山に行き、そしてリフトなしでスキーをして、さらに歩いて家まで帰ったものだ」と驚く。しかもずっとスキー靴で・・。昔は1日の時間が長かったんだなぁ・・・)が、父にしっかりとスキー靴のひもを縛ってもらって出かけるのが常だった。背中にタオルを入れて、ナップサックにおにぎりとミカンを入れて・・。
そんな40年も前の実家付近の情景・世界が、僕の夢にはきちんと残っている。明らかに空間的、時間的におかしな事になっている。しかし、それは、40年たっても同じように「おかしいまま」、でも一つの「世界」として構築され、完成しているのだ。実家にあった「恐ろしい」布袋像。車庫の下にあったナメクジの這う「室(むろ)」。父親に殴られては泣きながらたたずんだ階段下の物置、屋根裏・・・。そんな一つ一つが、テキトーに折り重なって夢を演出している。一昨日は、そんな実家に東チモールで知り合った知人達が遊びに来た。そして一緒に発寒川に釣りに出かけた・・。
僕にはふと帰る夢の世界がある。それは思い出(過去)かもしれないが、現実でもあり、また未来(希望)でもある。
会社に入って18年がすぎた。海外の仕事を始めて14年がすぎた。
トシをとるのは実に速い。
しかし、少年時代のわずか10数年間の夢が、いまも自分を楽しませてくれる。
こうした夢を与えてくれた親、兄姉、そしてそれを我がものとした自分に感謝している。 2001年11月17日
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