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Since April 17th, 2000 / Last Update March 14th, 2003


2.SSIMP (たぶん、その1)

 

今回私がここインドネシア、マカッサル市で従事するプロジェクトは、日本の円借款による実施事業、Small Scale Irrigation Management Project(小規模灌漑管理事業。通称SSIMP)です。

 

このプロジェクトはすでに12年以上にわたって継続実施されているものですが、当初のSSIMPはアメリカの援助機関USAIDが実施していました。しかし、USAIDの資金調達が困難となり、当時の中曽根首相〜レーガン大統領会談によって初の日米協調融資案件として、SSIMP/OECF(注1)が始まったのです。

 

SSIMPは当初の1期(東ヌサテンガラ、西ヌサテンガラ、南スラウェシ州を対象)事業から、金額、範囲を広げ、現在では4期事業としてその名前も「Decentralized Irrigation System Improvement Project」(DISIMP)に変え、ローン署名額270億円の巨大プロジェクトにまで成長しました。

 

このプロジェクトのコンサルティングサービスは、日本工営鰍ニインドネシアのローカルコンサルタントの共同企業体で行われており、今期のコンサルティングサービスは総額40億円以上となっています。

 

このプロジェクトの所長を12年間に亘り務められているのは、日本工営褐サ理事の佐藤周一さんです。佐藤さんはその筋では「有名人」ですし、単身赴任12年間の合間を縫って帰国されては、東大始め多くの大学で講演を行われており、その活躍ぶりは、国際開発ジャーナル7月号の特集記事で、「国際協力専門家の条件」として、いわば「コンサルタントのお手本」として書かれています。

 

プロジェクトの内容はこうした記事や既出の報文に任せることとし、ここには私とSSIMPの関係、今後登場するであろう人物との出会いと関わりを書くことにします。

 

 

(1)従事歴

 

SSIMPに従事することになったのは、1989年にマレイシアで行われたJICAの農業開発調査に参加したのがきっかけでした。同じプロジェクトに佐藤さんがメンバーとして参画され、大学が同窓ということもあってかわいがっていただき、その後佐藤さんがプロモートしたSSIMP第一期事業に誘われることとなりました。

 

はたして、1991年10月から翌年3月までの半年間、インドネシアの東部ロンボク島マタラムでSSIMP-1のスペシャルスタディ要員(佐藤所長をリーダーとする3名)として従事したのが最初です。このときのパートナー(というか恩人に近い)の日本工営Sさんと、佐藤さんと私の3人で寝食を共にしました。仕事もしたし、遊びもして、本当に楽しくすごした半年でした。いまになって考えてみれば、この半年間が自分のコンサルタントとしての基礎を身につける格好の機会だったと思っています。

 

ちなみに、その後の私のSSIMP従事歴は以下の通りです。

 

1995年10月〜翌3月末(SSIMP-2)

1996年4月〜6月末(SSIMP-2)

1996年9月〜11月末(SSIMP-2)

1998年7月〜11月(SSIMP-2)

2000年7月〜10月(SSIMP-3)

2003年7月〜9月(DISIMP)

 

このうち最初の2期間がSさんと一緒。3番目のアサインは私単独。4〜5番目は私の会社の若者I谷君も引き連れて、そして今回は会社の先輩のI川さんにもご足労をお願いして3名での従事となりました。

 

これらの従事期間中には、当時インドネシア領でSSIMPの対象にもなっていた東チモール、東西ヌサテンガラ、スラウェシ全4州、マルク州などを回りました。その間には実に様々な出来事があり、その一部は「祝船の雑感」や「ざりがに」にも記載しています。

 

(3)マカッサル

 

マカッサルは南スラウェシ州の州都で、少し前までは「ウジュンパンダン」という名前でした。SSIMP第一期の対象3州の一つに入っていて、しかも3州の中では最も「進んだ(?)」州だっただけに、ロンボク島にいながら、ここにくるのはとても楽しみでした。工営のSさんと飛行機の時間待ちで「マッサージ屋」に行き、二人とも寝込んで飛行機に乗り遅れそうになったこともありました。いま、SSIMPの短期専門家がマカッサルで宿泊する「ロザリ・メトロ」は、当時できたてのほやほやで、Sさんと私が従業員の接客指導までしたりして、いまだに 特別料金(洗濯・朝食込みの超特価)が健在です。

 

このマカッサルには、SSIMPの地域事務所があり、所長は英国人のハリ・クラーク氏が務めています。彼はUSAIDのSSIMP時代から、ここマカッサルにいて、もう、インドネシア暮らしは何年になるのでしょう。彼も佐藤さんと同い歳(しかも誕生日が一週間違い)で単身赴任です。

 

このハリーもまた、Mr.SSIMPなのです。実にカッコよくて、私は大好きです。イギリス人でありながらアメリカ人っぽく陽気でカラオケ好きです。彼がUSAIDのSSIMPに従事していた頃、私とSさんがハリーをマカッサルに訪ねたことがありました。SSIMPの第二期事業として、USAIDの「やり残しプロジェクト」をいくつか採り上げようと相談に来たのです。そのとき、最後まで一つ残ったプロジェクト(Ponre Ponreダムプロジェクト)について、彼が「Don't forget Ponre Ponre」(ポンレ・ポンレを忘れるな)、と言ったのを、私は忘れることができませんでした。そのPonre Ponreプロジェクトが、やっと今期のDISIMPで実施の運びとなり、今回の従事期間における私の仕事の一部となっています。

 

(4)カラオケ屋

 

SSIMPを語るときに、カラオケをはずすことができません。

 

マカッサルには、「グロリア」という伝説のカラオケ屋がありました。

ここは全くひどいところでした。薄暗い店内には、食堂用の安っぽいテーブルと折り畳みのいすが置いてあり、カラオケはいつまでたっても新しい曲が入らず、女性はといえば「明るいところでは直視できない」ような、年輩で厚塗りの女性ばかり・・・。おまけに女主人はいつも酔っぱらってヘベレケでした。

 

そんなひどいカラオケ屋ですが、昔から日本人はよく通っていたのです。日本工営の人もたくさん通っていました。おかしな話ですが、グロリアでいつも話に出てくる工営のNさんは、ネパールの仕事で初めて会ったときに、「Nさんって、あのグロリアにも行っていたNさんですか?」と聞いたこともありました。店の女性がよくNさんの話を聞かせてくれたのです。とにかくグロリアは、「伝説のカラオケ屋」だったのです。

 

しかし、そのグロリアの隣に、「イラニ」というカラオケ屋ができ、グロリアは、客も女性もみな「イラニ」にとられるようになりました。どんどん寂れていくグロリア・・・。

私とSさん、ハリーは飲みに行けば必ずグロリアに行きました。イラニももちろん行くのですが、その前後に必ず・・。飲んだくれの女主人は店の内装やカラオケの新曲に金を費やすこともしませんでした。

 

業を煮やした私は、何度か渡航前に秋葉原で中古レーザーディスクを購入し、グロリアに持参しました。どんどん寂れていくグロリアを見るのはつらく、寂しいものがあったのです。また、「オカマと年増に好かれる 男」と名高い私としては、店にいた「年輩の女性」にも同情したのです。「ここがなくなったら、彼女たちはどうするんだろうか」、と。

 

当時18歳くらいだった、カリマンタン出身のニタさんは、いつも私とSさんの席にへばりついてくる3人の女性の一人でした。おばさんたち二人になぜかかわいがられて、性格もとてもいい子でしたが、そのニタさんもある日イラニに移ってしましいました。

 

その後しばらくグロリアはがんばって営業を続けていましたが、3〜4年前に、借金のためとうとう店は潰れてしまいました。年輩の女性従業員たちはそれぞれ食堂の賄いを始めたり、薬売りを始めたりで、それでも故郷に帰らず、マカッサルの狭い一部屋アパートで細々と暮らしているのです。

 

一方、イラニでは私はずっとニタさんを指名しました。

どうも、グロリアの怨念というか、後ろめたさみたいものがあって、当時グロリアから移ってきたニタさんを指名しつづけたのです。

 

昨日、3年ぶりにイラニに行きました。「まさか」と思いましたがニタさんはまだいました。もう、30歳になったそうです。でも、昔と変わることなく、相変わらず気が利いて、自分より一まわりも若い女の子のなかでうまく接客し、そして若い子たちに指導しているようでした。突然私が来たので驚いたのかと思ったら、「○○さんに聞いて知ってた」とのことでした。○○さんとは2日前に私たちがマカッサルに来た夜に、日本料理屋「将軍」で偶然会ったのですが、情報の速いこと。驚きました。

確かに、この世界(マカッサルの日本人社会、特に夜)は狭いんです。店の女の子はうわさ話が命のようで、聞いてもいないのに、「○○会社の××さんは、△△ちゃんの彼氏で・・・」、と話しまくるのです。だから決して「変なマネ」はできないんですね。ヘタすると翌日には日本領事館に情報が届くことになってしまいますから・・。

マカッサルの夜はきれいに遊びましょう。

 

そんなわけで、昨夜もハリーとともに、がなり声を張り上げながら、ついつい2時まで歌ってしまいました。

 

(尻切れトンボですみません。疲れてしまいました)

2003年7月6日

(注1)海外経済協力基金。現在は国際協力銀行(JBIC)。円借款の実施機関。