1.ホームページを開設するにあたってのご挨拶
かねてより「ホームページ作成」を胸に抱きながら、技術的あるいは時間の問題もあってなかなか手がけることもできませんでしたが、「2000年1月1日オープン」を目指して、とりあえず見切り発車をさせていただきました。未完成部分が多くお見苦しいことと思いますがご勘弁願います。 海外、主に開発途上国をフィールドとするエンジニアの私が、勝手気ままに思うこと、考えることをこのホームページにぶつけてみたいと思います。仕事を通じて知り合った数多くの人々へのメッセージとして(e-mail代わりに)このホームページから読みとってください。 はじめのうちはこまめにアップするつもりですが、とにもかくにも少しずつ良くしていこうと考えています。本欄には今後『祝舟の雑感』として、最近考えること、おもしろい話等を紹介させていただこうと思っております。
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TOPに戻る2.海外技術協力における住民参加型開発アプローチについて思う |
住民に対して開発計画を説明しニーズの聞き取りを行う。「5年も待った」と村長に言われながらも、調査・計画に限られた業務の枠組みの中では、実施の予定を明言することはできない。 |
最近、発展途上国を対象とする海外技術協力業務において、「住民参加型アプローチ」が強く求められている。大規模開発中心の以前の開発アプローチは、おしなべて「国策の遂行」「目標の達成」を念頭においた、いわば「トップダウン式アプローチ」であったのに対し、現在は住民の意向を十分に入れた(当たり前のことではあるが・・)「ボトムアップアプローチ」で開発を進めていくべき、との考え方が浸透している。
こうした開発アプローチは歓迎すべきものであり、大賛成であるが、(事業実施について約束されていない)調査業務の段階で、「住民に参加を促す」ことは、ともすれば地域住民に事業実施に対する過大な期待を抱かせることにもなりかねない。 「住民参加」を唱えるにとどまらず、他国ドナーの支援事業に見られるように、調査→計画→事業実施→運営支援といった、とぎれのない首尾一貫した支援システムを構築することの必要性を痛感する今日この頃である。 2000年1月4日 |
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クリスマス、年末年始、断食明け休日、とインドネシアでは休みが続き、私の暮らしているホテルも連日満室状態となった。満室ともなれば騒がしくなるのは当然であるが、子供達のうるさいのには実際辟易した。 このホテルは華人の経営で、客も中国人が多いのだが、金持ちの中国人の子供達は「ぷくぷく」とよく肥え(はっきり言って肥満児)、ボンレスハム状態である。小さい頃からお手伝いさん(チュチさんという)に手厚く面倒をみてもらい、親には甘やかされ放題。廊下は走り回るは、よその部屋のドアはたたき回るは・・・、ほんなこつはらんたつ。 ある日ロビーから最上階の自分の部屋に戻るのに、エレベータを待っていた。扉が開いて「ハム三兄弟」がとびだし、ささーっと走り去っていった。(まったくもう・・) そしてエレベータに乗ると・・・、なななんと、各階のボタンが、ぜぇ〜んぶ押されているではないか! 困ったことに、「注意しない親が多い」のである。レストランで子供達が奇声を発し走り回っていても両親も爺さん婆さんも注意しないのだ。 「親の顔を見たい」とはよく言うが、その親がすぐ脇にいて、またその親も脇にいたら、一体誰の顔を見ればいいのだろう? 2人のスリムな娘を持つ父親として我が身を振り返りつつ、改めて言いたい。 「うるさいんだよ、ハム! 静かにしないと食べちゃうぞ!、まずそうだけど・・・」 (あ〜、すっきりした。 ハム関係者のみなさん、すみません) 2000年1月14日 |
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じゃがいも、落花生、とうもろこし、すべてゆでてある。
取水予定地点脇に咲く花。名前はわからず。 |
今週はプロジェクトの対象地区(4地区)で現地公聴会を行っている。 バンドンから車で1時間〜2時間の各村は山間丘陵地で野菜が栽培されている。日本で言えば「中山間地域」であるが、案外篤農家も多い。ここではまだ「博打」にも似た野菜栽培は、リスクの大きい農業経営を余儀なくされており、それだけに経営感覚に優れた農家も多いのである。 さて、公聴会では、その地の特産物が「おやつ」として出されることが多い。昨日訪ねたガルット県タンジュンカルヤ村では、写真のような「おやつ」が出された。とうもろこし、じゃがいも、落花生、おこげ・・・。お腹一杯になる。 おりしも、東部インドネシアのロンボク島ではマルクの宗教抗争が飛び火して警察・軍の発砲による死者も出た。(半年間ロンボク島に滞在したことのある私にとっても心痛む出来事だ) スラウェシ島でも21日の金曜礼拝の後に、「集会→暴動」の可能性がささやかれている。 「ウィラント国防大臣がワヒド大統領に解任され、陸軍がクーデターを起こすおそれがあるので注意されたし・・」、とのFAX回覧まで回ってくる。 そんな危険なときには、「村に逃げる」のが正解かもしれない。農民は優しく、おおらかに日々の暮らしを送っている。とうもろこしもじゃがいももある。食べ物が豊富なのだ。 一人で灌漑水源を踏査した。きれいな花が咲いている水源からの小径を抜けると、キャベツとトマトの混植畑に出た。高原に吹くさわやかな風。金曜礼拝もあって人っ子一人いない。 「この仕事をしていてよかったな」、と思える自分は幸せ者に違いない。 2000年1月21日 |
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先頭はライオンに乗った少年。次はガメラみたいな鳥にのった少女。その後ろに巨大スピーカが見える。 荷車に積んだスピーカーを背にキーボード奏者とドラム奏者が乗りまくっている。お巡りさんは交通整理。最後尾は発電器。 |
土砂降りの現場で田んぼの畦を踏み抜いた帰り、通りかかった村(西ジャワ州ガルット県)で左の写真のような御輿(?)と出くわした。 ライオンに乗った男の子(化粧している)、怪鳥(?)に乗った女の子、そしてけたたましい音楽。なんの儀式なのかはわからないが、たぶん「割礼のお披露目」ではないかと思う。 思わず車を止めて写真を撮らせていただいた。張り子のライオンと怪鳥もさることながら、後続のバンドには驚いた。 荷車の上で「乗りまくり」のドラマーとキーボード奏者。目をつぶってなにやら派手な曲を演奏している。一体何人の人が必死の形相で荷車を引いていたのか? 最後尾の発電器がまたすごく重そう。子供達が4〜5人で押している。 気持ちいいんだろうな・・。ここまで大きな「モバイルグッズ」は私も見たことがない。 飛び入りで「祝舟」でも歌いたかったなぁ。 2000年1月27日 |
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もとより、熱帯のインドネシアに滞在し「寒い」と思うことは滅多にないが、それでも「寒々とした気持ち」になることがある。大学時代の友人から一通のメールが届いた。 その友人は建設コンサルタント会社に勤務している。私と同じように海外技術協力を扱う部門に所属している彼は、技術者として海外業務に従事する一方、総括管理職として、部の管理業務もこなしている。大学時代は大酒飲みの豪放磊落さばかり目立った彼も、いまや部を背負い、その手腕を発揮している。 |
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彼の会社は業界でも大手で、海外部門は赤字部門ではありながらも、『国際社会に貢献する企業』として会社のステータスを保つ役割を担ってきた。しかし、昨今の不況により民間発注業務が激減し、公共事業批判も高まる中で会社の受注は「じり貧」となり、海外部門の縮小・解消案が経営トップからも示唆されるようになったという。
その会社の海外部門は、かつて「中高齢技術者活用対策」として、国内部門の熟練(高給)技術者を割愛して始めたこともあり、人件費が他部に比べて非常に高い。国内業務と違って「プロポーザル方式による受注」がほぼ100%を占める海外業務では、個人個人の経歴が受注の大きな鍵を握っているが、経験豊富な技術者を抱えれば、それだけ経費はかさんでいく。結果的に彼の部門の負担する会社の間接経費(人件費に応じて配分される)は業務受注金額の多くの部分を占めることとなり、「赤字体質」から抜け出せない状態が続いていた。 かといって、高給の経験者をリストラすれば仕事は取れなくなる。一方で、会社は「収益の改善」「赤字の削減」の一点張り、という。会社全体としてはもちろん利益を出しているのだが・・・。 優秀な技術者である彼は、客先からの引き合いも多く、年間8ヶ月を越す出張をこなし、「経験者重視の受注体質」のなかで、時間をかけながら若年技術者を育ててきた。 そんな彼が、今年度中にある決断を迫られている・・・。「人員削減」。 10数年間、彼を技術者として育ててくれた上司を、あるいは育ててきた部下を、他部、社外に出し、リストラを断行しなければならないのか。「人を切って黒字になるならいいが、赤字が小さくなるだけなんだ・・」と彼は言う。 「経営手腕がない」、「やり方が悪い」、どれも一理ある。いや、それがすべてかもしれない。 しかし、身近な問題として、身につまされる。切ってしまった首は決してつながらない。会社は、部は生き残っても、様々な禍根を残すことには違いあるまい。誰を切るのか、誰の人生を犠牲にするのか・・。「甘い」、と言われればそれにつきるかもしれないが、心のなかを吹き抜ける風は冷たい。ただ漫然と時は流れていくが、どんな猛者にも心に吹き荒れる寒い風がある。 2000年2月2日 |
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2月末には業務成果報告のため、一旦帰国しなければならない。その前には報告書を仕上げなければならない。そのためには・・・・・、あ、あ〜っ! 時間が、なっ、いっ! そう言いながらもホームページは更新するのである。なぜなら、エンジニアにとって「クリエイティブであること」こそ命だからだ。(なんのこっちゃ?) 報告書のネタづくりに余念がない。なかでも重要なのが建設コストであり、そのためには設計図が必要である。「コンクリートが何m3、土工が何m3、・・・」これらは図面がないとわからない。測る対象が必要なのだ。ところが私は本来、水文が専門。施設設計は若い頃に数年やった程度なのだ。 今回初めて使うAutoCADで、しこしこ図面を描き始めた。取水工、ファームポンド、パイプライン・・・・。う〜ん、おもしろくない。根気が続かない。どれもこれも「お決まり」の姿・形。機能だけの代物。 イヤなものは他人に任せて今度は「農産物集出荷施設」。 「家」である、「家」。これがおもしろい。ハマル、ハマル。 「壁はニッパヤシにすっか。屋根は地元の名産瓦だな、柱はちょっと高いけどボルネオ材の一本ものか、フンフン・・・」。楽しいんだなぁ、これが。「四角ばっかりで描きやすいからだろう」などといわないで欲しい。たしかに水利構造物は流線型の部分が多くて描くのは大変だが、それだけの理由ではない。構造物そのものよりも「空間の設計」というのがおもしろいのである。 「農業土木」という「土くさ〜い」バックグラウンドを持ちながら、「クリエイティブに、な!」。これが私の個性なのだ。 2000.2.6 祝舟三郎・作 『農産物集出荷施設』(禁複製) |
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帰国を前にして非常に忙しい日々を過ごした。 平日はもちろん、最後は土日も深夜、あるいは朝まで仕事をしていた。 その仕事もやっと昨日あたりで目処がついた。 時間というものは本当に正直である。 善人にも悪人にも、金持ちにも貧乏人も、日本人にもインドネシア人にも、分け隔てなく同じだけ与えられ、決して時間に裏切られることはない。 落ち込んでいる時も舞い上がっているときも、時は同じく過ぎていき、身体の傷も心の傷も、結局は時間が癒しているようにも思える。 今回はいい勉強をさせてもらった。 徹夜明けのある日、一緒に仕事をしたNGOが彼らの報告書を持ってきた。 「調査団が今回の調査でなしえなかったことは『住民参加型』アプローチであり、インフラ整備については、まさに『トップダウン』アプローチと言わざるを得ない。農業省と(裕福な)日本人が『ここにこういったものを作る』という説明をすれば、『すべてお上がやってくれる』と考える農民達は、公聴会でも『もっと欲しい』あるいはただ『イエス』としか言わない・・・(以下略)」 インフラ整備は私の担当であり、「無断欠席したカウンターパート(農業省)」のかわりに私が三ヶ村の公聴会で計画を説明したのは以前に述べたとおり。NGOの目には、「一方的に自分たちの計画を説明している日本人」と見えたのだろう・・。 今回の調査は、PCMワークショップや数百世帯の農家調査、公聴会、と住民参加型を「うたい文句」にした調査である。二次調査から参画したNGOは、英語で書かれた私たちの一次調査報告書を殆ど理解していなかった。一次調査のPCM手法(住民自らが現状の問題点と対策を協議・整理しながら計画の基礎を作っていく)の結果作られたインフラ整備のそうした背景もNGOは理解していなかった。 それにしても、である。 私はNGOの報告書に『トップダウン』と書かれたことに、少なからず衝撃を受けた。 数時間に及ぶ話し合いの結果、NGO側は誤解を認め、報告書の内容も書き換えられた(決して強制したわけではない)。 去年の4月にバングラデシュの貧困対策プロジェクトに、やはりインフラ整備担当で参加した。日本のNGOとの連携(「開発パートナー支援事業」という)を進めるための基礎調査だった。対象地区を訪れるとき、そのNGOの人は言った。「日本人がたくさん行くと、住民が変な期待をするから、数名で行きましょう」、と。 『トップダウン』と書いたNGOに私は熱く話した。 「短い時間のなかで、我々外国人技術者にできないことがたくさんある。 言葉であり、社会にとけ込む調査であり、住民の本音を聞くことである。そのためにあなた達NGOに一緒に仕事をして欲しかった。少しでも住民の意向を反映させる住民参加型アプローチを貫くために、NGOに手伝って欲しかった。そこに、なんの提案も、議論もないままに、いきなり報告書に『トップダウン』と書かれたのは非常に残念だ」、と、こんな事である。 だが、そんなことを言いながらも私は非常に憂鬱であり、ちょっとした挫折感を感じていた。 徹夜をし働き続けたその「時間」の分だけの成果があがった。 一方、私の気持ちのどこかにはどうしても割り切れないものが残り、心の隅にはちょっとした傷がついた。 それでも、時間だけはそんな私を取り残して淡々と進んでいく。そして私の受けた傷もまたその時間が癒していく。 2000年2月25日 |
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試験前には会社まで行って「試験に強い鉛筆をとりに行き、本屋で試験本を購入した。試験の始まるわずか2時間前なのに・・・。 |
本当に久しぶりに(何年ぶりだろう? 4年? 5年?)英語の試験を受けてきた。 仕事上必要な資格は英検1級かTOEIC875点以上など・・。英検は10回以上受けたけど、「カスリ」もしない。そこで受け始めた「必ず点数のもらえるTOEIC」受験。1回目は830点。ヒアリングマラソン等で頑張って、リスニングのスコアが100点近く上がり、2回目は915点。所与の要件を満たして、その後は英検もTOEICも受けなかった。「必要なかった」から・・、そして、「点数が下がるのが怖かった」から?・・。 最近の語学検定はどれも難しくなっている。当初の英検準1級は幸いにも1回でクリアできたけど、いまの問題はずいぶん難しい感じ。もう一度受けたら不合格かもしれない。
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ところで今日の試験はなんで受けたんだろう? 「守りに入っている自分をもう一度目覚めさせるため」なのか、「改めて勉強しよう」なのか・・・。申し込むだけは申し込んだが、あまり受けるつもりはなかった。今日も自宅でしなければいけない仕事があったし・・。しかし、時間が来ると当然のことのように足は試験場に向かった。「棄権」は考えられなかった。 そして、受験。やはりできなかった。200点くらいスコアは下がるかもしれない。ずいぶん難しくなったような気がした。やっぱりやめとけば良かったか? いや、そうでもない。試験後の高揚感にはすばらしいものがあった。アルコールで塞がりかけた脳の毛細血管に血が行き渡るような緊張の2時間だった。自分が好きだったことを思い出した。試験オタク・・、外国語好き・・、そう、それが自分だった。仕事に必要な資格を取ったことで、自分を見失っていたような気がする。たまたまとれた、まぐれの点数に縛られて、自分の楽しみを捨てていた。去年はスペイン語検定を受けた。技術士にしてもそうかもしれない。「技術士資格の取得はそれ自体が目的ではない、そこからがスタートだ」などとカッコいいことを言いながら、4年たった今もスタートラインに立っているのではないか? 今年は測量士登録をしようと思っていた。気象予報士は5万円の通信教育教材がほとんど手つかずで眠っている。まぁ、それでもいいか。つねに何かに向かって自分を奮い立たせていること、走り続けていることが、自分には必要なんだと思う。「走り続けてきたことが自分を追いつめた」と考えたときもあった。しかし、今は、それでも自分は走らなければいけないような気がする。 いままで引っかかっていた一つのことが今日、吹っ切れたような気がする。1ヶ月後に送られてくるスコアが楽しみだ。 2000年5月28日 |
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露場。気象観測機器が並ぶ。中央の貯蔵庫では、キャベツの越年貯蔵実験が行われ、春にはジンギスカンの材料に困らなかった。貯蔵庫の左が観測機器室。別名「鳥小屋」。今もビオラの音が聞こえてくるような・・・。 |
外勤の合間、本当に久々に母校を訪れた。卒業証明書、履修証明書を入手したかったこともある。卒論、修論で通った露場(気象観測機器を設置する場所。15m四方が草地になっている)に足を運んだ。 本当に懐かしい。悲喜こもごもの日々。しかし、ここに来るといつも胸が痛む。なぜならば・・、本当に「勉強しない学生」だったから・・。今になって「勉強したい」と思うことが多いが、昔の自分は本当にひどいものだった。バイトに明け暮れ、自分の「怠け」のために大学を利用していたようなものだった。返す返す、当時の教官には迷惑をかけたと思う。研究のプロとしてのプライドをかなり傷つけてきたんじゃないのかな? 先生、本当に申し訳ありませんでした。 でもね、露場の草刈りはもうちょっとやった方がいいと思いますよ。「草ぼーぼー」でした。 |
農業気象を専攻していた私は、毎月1日に必ず測定器の「記録紙交換」のために露場に通っていたのでして・・。雨の日も、風の日も・・。正月も寿司の日も映画の日も・・・(何のこっちゃ?) ある日、バイトが終わって夜中、露場に戻ってきて、観測小屋(窓なしの2畳ほど)に来ると中から光が漏れている。「誰だぁ、電気消し忘れて・・」と、分厚いドアを「ガサッ」と開けると、なかでオケラ(オーケストラ)所属の講座先輩、N村さんが「ビオラ」の練習をしてた・・・。 「いや〜、音が出るし、練習する場所がなくってさぁ〜」、と言ってた彼は今は気象協会に勤めている。「鶏ガラ」のようにやせ細ったN村さんにちなみ、それ以降観測小屋は「鳥小屋」と呼ばれるようになった。しかしビオラの腕は確かなもので、同期院生の結婚式の新郎新婦入場で、ビオラを弾きながらの「お供」もすばらしかった。最高の式だった。 奥の温室では、中央ローンで観光客をお誘いしポプラ並木を案内後ジンギスカンをよくやった。あぁ、なつかしい。 露場にしばし立っていた。17年前のことがつい先ほどのことのように思い出される。スーツを着て、ネクタイをして、そこに立っていることはひどく不自然だった。 しかし、吹き抜ける風は変わらなかった。相変わらず冷たい風だった。 今日の午後は本当に寒かった。 2000年6月7日 |
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釣果の鯛を持つ同僚。海はベタ凪。彼の後方に船頭ほか二人の助手(子供)がのっている。この舟(海の幸丸)は、以前、知り合いのA月氏が投資し船頭に寄贈したもの。舟には「日の丸」となぜか三菱の菱形マークがついている。今回もかなり追加投資をした。 食べきれないほどの刺身は5人前はある。持ち込みの魚を気持ちよく引き受け、調理してくれたオーナー西川氏に感謝。(於:ニュー将軍) |
『「計算された」インドネシア出張はこのためにあった』、と言っても差し支えない、この週末。 土曜日の昼過ぎにマカッサルを出発。途中のバル市で氷と食料を買い込み、5時に現地着。出航が5時半。それから、朝の8時まで徹夜で釣り。とはいっても、「大漁」とは言い難い。いつもならば70センチ級の鯛や糸引きアジ等が結構釣れるが、この日は小振りな鯛中心。写真の同僚は「海釣り初めて」で釣果は「たもで掬ったタコ一匹」だったが、「夜風に吹かれ、満天の星空の下、大海原で寝るのは最高に気持ちよかった」、とのこと。 かく言う私は、当初の意気込みに比べ釣果はいまいちで、「さびしい」釣りとなったが、それでも刺身にするとちょうどいいサイズの鯛が10本余りあがったので、釣り自体にも満足した。釣り具は竿を使わない。スパゲティ様のラインを直径25センチのドラムに巻いて、「手」で釣るのである。仕掛けに使うラインは20〜40ポンド。 朝8時、現場を出て、帰途中にあるゆでトウモロコシ屋台群(30件ほど道路沿いに並んでいる)でゆでモロコシ(唐辛子入り塩をつけて食べる)を朝食とし、マカッサルの知り合いの宿舎に釣果を届けた。その後写真の鯛一本をもって、日本食レストラン「ニュー将軍」に持ち込み、夕食の刺身の予約をした。 ホテルに戻り、冷房の効いた部屋に入り、砂だらけの足を洗った。ふと、「さぁ、何しようかな?」、と思うと、「何もない」ことに気づく。「するべき事が何もない」。 熱い風呂に入り、ルームサービスで冷えたビールと、スパゲティを頼み、昼食を済ませた。そして昼寝。引き込まれるように眠った。 午後7時、「将軍」へ。 刺身は上手に舟盛りにされて、この上なく美味しかった。刺身の後は、「カマ焼き」にしてもらって食べた。 ホテルに戻り、マッサージを頼んで余りの気持ちの良さに眠ってしまった。起こされて目が覚めた。 |
この約30時間の各場面で、何度「幸せをかみしめた」ことか。つらいことも多くある、いや、つらいことの方がはるかに多いかもしれないが、こんな週末もある。そして、この週末は、「恵まれているから得られる」のではなく、「求めるから得られる」のであり、「感じるから得られる」のであるということを、改めて感じた。最高の「感動」や「幸せ」は、ごく身近にある。 2000年7月23日 |
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水路内の堆積土砂はきれいに除去され通水を待つばかりの状態となった。
かつて経験のないこの時期の畑作物栽培。導水路の水は工事のため止められ、農家はトウモロコシを植えた。なかには「あきらめて」作付けをやめた農家も多い。 |
2年前に当地で従事した水管理プロジェクトのなかで、優先事業として実施された幹線用水路の改修工事が完了した。 構造的に、もともと計画流量の半分の容量しかない導水路は、一部施設での堆砂や老朽化のためさらにその3分の1の水しか流せない状態にあった。「僅かな投資による緊急改修で、それまでの3倍の水を灌漑地区に流す」という計画を私たちは2年前に立てたのである。 プロジェクト対象地区の位置するこの県は「貧しさ」と「住民の気性の激しさ」で知られている。さらに灌漑地区上流部には「旧王族」でもある豪農が散在し、我田引水がまかり通っている。こうした社会的問題は、水管理において最大な障害となるが、また解決するにも最大の難問である。私たちは、緊急改修工事によって3倍の水を流すことを受益者に対する「インセンティブ」とし、目下豪農を含む地区農民に「均等な水の分配」を働きかけ、NGOの力を借りて水利組合の組織強化を試みている。 そして8月1日。ローテーション工事の行われる2次水路改修の着工を前に、完成した導水路への通水が開始された。水路内の水位は以前とさほど変わらないものの、堆砂が取り除かれ、流量は2〜3倍に増えている。農民は目を丸くして驚いた。「なんだ、この水は・・・」 NGOと私たちは、それまで水が行きわたらなかった下流へも水を流すため、用水消費の多い水稲をやめ、乾期は畑作物を栽培するべく、草の根レベルで農民達との話し合いを続けた。そして7月末には「畑作栽培の同意書」が農民から提出された。 ところが、導水路を流れる水を見た農民は、口々に「これなら全部水稲でいける!」と言い出したのである。水稲を一斉に植え始めれば、明らかに水は不足する。私たちは今、戦々恐々の思いで乾期作の始まりを迎えている。
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そして先週の木曜日、悲しい事件が起こった。導水路で水遊びをしていた小学生が溺死したのである。前述の通り、水路の水位は変わらなくても、以前より水深があり、流速も速い。以前の感覚で泳ぎに入ったその小学生は、とまどいのうちに溺れてしまったのだろうか。子供の母親は興奮し、「こんなに水を流した役所やコンサルタントが悪い」と非難し、同調する者もいたという。私たちは、現場で工事監理をするエンジニア達を一時呼び戻した。「気性の激しい」同地区では、よそ者を嫌うだけではなく、危害を加えられた場合の復讐や、宗教裁判的な殺人、傷害事件も多いのである。その後、NGOが住民達への説明を行うことで騒ぎはおさまり、現在は引き続き二次水路の工事が行われている。 通水前の注意喚起は十分に行ってはいたが、10キロに及ぶ水路全線に常時監視の目を向けることもできず、また貴重な水場(洗濯、水浴び等)となっている水路への防護柵等の設置は地域住民に受け入れられようもない(水路には「洗い場」等も設置している)。 私たち灌漑排水技術者は、「農業用水を流す」だけの「技術バカ」ではいけない。水は地域の生活や社会と密接に関わって微妙なバランスを保っている。水を増やすことも、減らすことも、そういった微妙なバランスを崩すことになる。たとえそれが「悪しきバランス(不均衡、格差)の是正」であってもである。経済的、精神的に豪農の支配を受けている貧農にとっては、「平等・均衡」は「自立過程でのつらい一時期」をもたらす。 2年前に私たちのプロジェクト事務所を訪れたカナダ人と日本人の「ジェンダー専門家」(女性)に、「この世の諸悪の根元は男とエンジニアです」、と言い放たれ、対応したイギリス人のチームリーダー、インドネシア人のNGO代表(いずれも男)と3人で首をすくめたことがある。 私が、「今やっている灌漑水路改修計画で、具体的にどうやって女性への利益をもたらせる計画を入れ込むことができますか?」、と質問したところ、彼女は、「この水路を流れる水が、どうやって女性の社会生活を助けることができるかを考える、そこがスタートラインです」、と応えられた。 「この水が、それぞれの人に何をもたらすか・・・」。 2年前私たちは、「3倍の水を流すことによって下流貧農の喜ぶ顔」を思い浮かべながら計画を立て、設計をした。導水路で溺れるであろう小学生と家族のことは正直言って考えていなかった。犠牲はあまりにも大きかったが、私たちは今回貴重な教訓を得、そして教科書や設計基準書には書かれていない学ぶべき事が、まだまだたくさんあることを知った。 しかし、それでもなお、私は灌漑排水技術者として「いかに農地の水環境を整えるか」を考えている。 2000年8月9日 |
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TOPに戻る「ざりがに」で紹介した和風人は、現場で少しずつ本領を発揮し、温厚かつユニークな人柄で現場をまとめている。
そして、今週新たにジャカルタからhydrologist(水文専門家)が着任した。本名は書かないが、音の響きからすると「ひでぇや」となる。年齢は46歳。経歴書を見ると数多くの水文関連の仕事をしている。 現場に来た彼はなかなかプライドが高そうで、小柄だが風格があった。年齢と経験の数だけの仕事をしてくれるものと大いに期待した。いわゆる「ちょっとうるさいタイプ」で、私には逆に頼もしくも感じられた。 |
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私はそれまで「集めて(放って)おいた」気象・水文データを彼にそっくり渡し、彼の仕事の内容を説明した。「あとは必要なものがあれば言ってくれ。仕事は現場でも、マカッサルでもいいから、期限までに結果を出してくれればいい。必要ならばアシスタントやコンピュータも用意する」、と告げ、その後2〜3日間は現場調査に出かけた。 そして昨日、彼の仕事の進捗を確認した。「非常に大きな不安」が的中し、彼の仕事は「最低以下」だった。私が少しずつ質していくと、彼の表情はどんどん「弱気で自信のない」様子になってきた。
彼の経歴書は「作られた(ねつ造)もの」だった。この世界では「経歴の水増し」はよくするが、それは仕事ができて許されることであり、その能力がなく仕事もこなせなければ、「詐欺」と非難されるか、信用を失って二度と使ってもらえない。
「これではいかん」、と急遽彼を連れて現場からマカッサルに戻った。土曜午後の休みだったが所長と副所長、コーディネータと話をした。結果的に彼はジャカルタに戻すことにした。「着任拒否」、「能力がない」と返品するのである。
他の技術者がみな帰ったあと、西陽が射しエアコンの壊れた暑い部屋で一生懸命電卓を叩く彼がいた。
もう「通告」を受けたんだろうと思い、
「あれ、コーディネータと話はしたのか?」、と私が聞くと、彼は、
「はい、話しましたけど、できれば私は仕事がしたい」、とボソボソ応えた。「9ヶ月の契約」と言われて、家族をジャカルタに置いて初めて南スラウェシにやってきたのだ、おいそれとは帰られない事情もあるだろう。
しかし彼をジャカルタに戻すことは決定事項である。
「そうか・・。ま、とりあえず月曜日にジャカルタからの答えをもらって結論を出すけど、私は明日現場に戻るから・・。でも、今回の仕事はちょっとあなたには無理でしたね。何かほかに見つけられるといいのですが・・」、と私が話すと彼は、
「役に立たなかったようで申し訳ない。でも、今度また一緒に仕事をする機会があったらよろしく」、と、分厚いデータと今週の仕事の成果を私にくれた。データはA3版1枚1日分の日気象データ(気温、湿度、風速、日照時間)と日雨量10年分である。
そして彼のくれたA4版2枚に手書きの紙には、その毎日のデータを電卓で「足し」「割って」求めた月平均値と合計値が書かれていた。1週間分の成果だがほんの僅かの量である。しかし、もし私が同じように電卓を叩いて計算すれば、もっと少ししかできなかったかもしれない。彼はコツコツと1週間電卓を叩き続けたのだ。 現在では、こうしたことはアシスタントでさえしない。すべてパソコンに入力して行うのが「あたりまえ」なのである。
私は非常に悲しい気持ちになった。
一昨日彼と話したときに、「コンピュータは使えない」こと、「灌漑計画の従事経験がない」こと、などを聞いた。「欠測値がたくさんあるんだけど、どうすればいい?」、とも訊かれた。「e(指数関数)はいくら?」とも訊かれた・・。それ以上彼に指示をすることはやめた。
私は現場からマカッサルに電話をかけてコーディネーターに怒鳴った。
「ジャカルタに手配して現場に送る前に、何ができて何ができないか、ちゃんと確かめろ!」、と・・・。
情けない顔をしてA4の紙2枚を出したときの彼のすまなそうな顔。私は決してヒューマニストでもなんでもなく、「できないヤツは去れ」というルールを通したが、「ま、とりあえずやってみろ」、と「遣り手ババァ」のように彼を送ってきた連中には本当に腹が立つ。
今回は無駄にした時間と金も大きく悔やまれるが、それよりもなによりも、そんな「いいかげんさ」に嫌気がさした。 2000年8月19日 |
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水路の底に開けられた「bobolan」 |
現在従事中の「水管理改善計画」は5万f(500平方キロ)という広大な水田灌漑地区を対象としているが、この仕事を一言でいうと、「実に退屈で難しいプロジェクト」ということになる。
これまでの調査結果によると、水源である河川の水量は5万fを灌漑するに十分な量がある。しかしながら、地区内では恒常的な水不足が問題となっている。何故か? かいつまんで説明しよう。 主因: 農民の参加意欲不足に伴う維持管理欠如。農家は「自分の施設」として管理する気持ちがない。「水は、水路はお上がくれるものだ、自分たちは貧乏なんだから・・」、との認識のもと、水路の草むしりや泥すくいなどをしようとしない。一方で政府の維持管理予算も不足。 |
その結果@(初期症状): 施設は自然災害、施工の悪さ、維持管理予算の不足などもあって当初の容量を短期間で容易に失う。→「容量の非人為的理由による減」
その結果A(慢性化過程): 農家は所定の構造物では水が満足に取れないため水路を切って我田引水する→人為的破壊による「損失激増」。
その結果B(末期的症状): 「無秩序」状態。取ったもの勝ち。→「痛いところを突かれる」、「農民間で争いごとが起こる」ことがイヤで、「お上」に対する不満として、「知事」やら「役所」に「水が足りない」と陳情し、農民間での話し合いを一切持とうとしない・・・・。
さて、写真を見て欲しい。 これは、今回の「改善計画調査」のなかで、「緊急改修工事」(「いろいろ計画を立てるまでもなく、とりあえずすぐにでも改修工事をしないと営農に著しい影響を与える箇所を改修し、その上で中長期的な改善計画を立てるべき」とのコンセプトによって行われている工事)が行われた水路の「工事後」の写真である。ちなみに本工区の工事内容は「容量回復のための堆砂の除去」である。 しかし、堆砂が除去された水路底にはしっかりと「bobolan」(農民が我田引水するために作った取水口。)があるではないか・・。
「この仕事の目的は何か?」、 「水を末端まで行き渡らせることではなかったのか?」 「契約内容が堆砂除去だったから、bobolanは塞がなくてもいいのか?」 「なにを考えているんだ、一体?」・・・・、疑問はつきない。
しかし・・・、この「穴を塞ぐ」ことが、いかにも簡単であるように見えて(物理的にはセメントで埋めるだけ・・)、実は「非常に困難」なのである。「最先端の技術」ではない。「高度の技術」でもない。しかし、「技術と人間社会の融合」、この一点が我ら農業技術者の永遠のテーマであり、それはこのbobolanを塞ぐことで具現化される。
「埋めても次の日には別の穴が開けられている」か、はたまた「埋めた途端に蛮刀で襲われる」か。 「水が来なければ米は死んで俺達も食っていけない。これは死活問題なんだ。この穴を塞ぐまえに、田圃に水をかけろ!」、という農家の声が私には聞こえてくる・・・・。
上流で「我田引水」をしているがために自分たちの田圃に水が入らなくなった・・。そのとき、農家は「血で血を洗う水戦争」よりも、「水路をせき止め、足りないなりに水位を上げ我田引水する」ことを選ぶ。そして、その下流の農民は泣き寝入りする。「上流には裕福な豪農がいて水をふんだんに使い、下流には貧農が細々と営農する」、これがインドネシア灌漑地区の社会構造なのだ。
「緊急改修」・・・、それは何か? 「灌漑農業開発はどうあるべきか?」・・・、 「開発の持続性とは何か?」・・・、すべての疑問・問題を解決する鍵は、この「bobolan」を塞ぐことにあり、またそれがすべてでもある。
「ちょっと、その穴塞いでくれる? 塞いでくれたら、博士号でも、ノーベル賞でもあげますよ。この仕事の退屈さと難しさを克服したあなたに・・」
2000年8月28日 |
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Rappang幹線水路脇の水田では収穫が近かった。 |
3ヶ月の従事期間を終え、今晩ジャカルタから帰国の途につく。ここマカッサルを2時に出て、ジャカルタで打合せをして、夜行便で明日の朝成田に着く。
今回の仕事は6万fにおよぶ灌漑地区の水管理改善。インドネシア独立前にオランダが作った灌漑システムは、既に60年間使われており、70m3/s以上の河川流量をもって水稲二期作が行われている。まさに、稲作地帯の中の稲作地帯。 調査期間は延べ2年間を予定しているが、私と同僚2人の日本人の役割は、調査初期(3ヶ月間)の立ち上げと方向付け、そして残期間の指示書作りである。 ローカルスタッフ10名以上をもって一つのチームを構成しての、3ヶ月に亘る作業も昨日ですべてが終わった。昨夜(今朝か)は同僚と3時までカラオケに興じ、しっかりと打ち上げまでやった。 |
それにしても、この3ヶ月間、実をいうとかなりたいへんだった。
6万fといえば25km四方である。とてつもなくデカイ。農家は4万世帯、15万人以上である。60年間に亘り営々と続けられてきた灌漑稲作社会に対し、「ひょこっ」と現れた10数人のエンジニアが何をできただろうか?、そしてこれから何ができるだろうか?
現場はここマカッサルから北へ200km。事務所はマカッサルにあるが、現場にも作業スペースはあり、しばらく現場に張り付いた。わけもなく(?)水路沿いを歩き回った。車で通れる道をことごとく走った。農家とできるだけ多く話をした。しかし1ヶ月たっても、ちっとも見えてこなかった、計画の方向が・・。 ボスのイギリス人に「何がわかった?」と聞かれるたびに焦りは増した。
現状把握、問題分析を的確に行うことはあたりまえだが、「計画屋」は要するに「アイデア」「ひらめき」「創造力」が命なのだ。 たいていの場合は少し現場を見れば、「あっ、ここの答えはこれね・・」と、いくつかの道筋が見えるのである。あとは、その道をまっしぐらに進むだけだ。 この「目」を持っているか否かが「計画屋」の優劣を決めると言っても過言ではない。
2ヶ月近く経ってもまだ方向が見えてこなかった。おざなりの改修や組合強化が「効かない」のは60年の歴史が物語っている。そんな「絵空事」を書くのは自分が許せない。 焦って現場に入り浸っても、「何をどうすればいいのか」わからなかったのである。幾度となく、水田のあぜ道で立ちつくした。炎天下、10分、20分と考えた。水稲に呑み込まれそうな感覚だった。 「もう、そろそろだめなのか?」と自問自答したこともあった。限界を感じた。エンジンは一向にかからなかった。
結局「これだ!」というものは、出てこなかった。調査範囲が広大なために、すべての調査結果が「中途半端」であり、「ものを言えない」ことも確かにあった。さすがに「データ無し」では現状分析もできず、計画発想のベースがなかった。ここでいたずらに結果を出すことは極めて危険と考えられた。しっかりとした水先案内人なしでは、計画が間違った方向に進む可能性がある。
そうは言いながら、きれいな中間報告書はでき、プレゼンも終えた。一応の評価は得られたと思っているし合格点であるとも思う。360ページの主報告書はCD-ROMに焼き付け、電子文書化してボスに渡した。写真もあり、カラーでビジュアルな報告書である。 長年この仕事をして思うのは、「面白くない報告書」と「興味の湧かない報告書」は決して読まれない、ということである。そして多くの報告書は読まれていない。
報告書は「ノン・フィクション小説」である。同じ事実でも、素晴らしい内容でも、「伝える事ができなければタダのゴミ」である。「技術力」はエンジニアの命であり、「表現力」はコンサルタントの命である。そして「発想、創造力」は計画屋の命である。
「無理な3ヶ月の仕事」だったかもしれない。私は同僚(部下)の契約延長2ヶ月半を決め、今後の業務サポートの足がかりとした。
「今度はいつ来るんだ?」 プレゼンの最後にボスに聞かれた。 「華々しく」飾られた報告書の内容は、「構想レベル」のものも多く、それを計画に載せていくにはローカルでは心許ない。 「来年のいまごろだな・・」、と私は応えた。
4泊5日で日本に帰る。 6日には次の赴任地、東チモールに向かう。「農業セクター開発」。東チモールに対する農業分野の計画、援助方針を決めるのが私の役割だ。年内の予定である。 10月9日と10月末には、娘達の合唱コンクール全国大会(東京、郡山)に行く予定だった。チケットも手配済だったが、無駄になった。 長女に「ごめん、行けなくなったよ」、と話すと、彼女は 「残念だったね、お父さん。毎年司会はアイドルなんだよ。来れば見られたのにね」、と言った。 予想と違う反応だったが複雑だった。
水稲の海でおぼれかけても、確かに私の心には大きな浮き輪があった。
2000年10月1日 |
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ストレス解消はこんな「楽しい宴会」ですればいい。酒も飲まずに「グチグチ他人のうわさ話」は良くない。 |
東チモールにいたときの話・・・。東チモールはご存じのとおり、国連暫定行政機構(UNTAET)、あるいは東チモール暫定行政機構(ETTA)によって、2001年の完全独立(自立ではない)を目指している。UNTAETには、日本をはじめとする先進国から派遣されている職員(UNDPなどの国際公務員または日本政府からの出向者)と、国連ボランティア(UNV)と言われる「月2500ドル目当て」の発展途上国のエリート達が大部分を占めている。もちろん、平和維持軍(PKF)や文民警察(CIVPOL)などには、発展途上国が「口べらし(給料の肩代わり)」を求めて、大量に送り込まれている。まさに、自国の事情が優先的にまかり通る世界なのである。 こうした中にあって、国際エリート官僚や日本のエリート出向官僚たちの仕事ぶりはそれなりに評価できるものである、と私は思っている。物事を変える力(意欲)はないにしても・・・。 |
それにしても、どういう訳か、こうした国連エリート官僚・出向官僚のなかには、「人間性を疑いたくなるような輩が多くいて、しかも群れている。彼らの行動パターンは似ている。「他人の仕事ぶりを悪く言うことはあっても、決して褒めない」、「口癖は『あいつは仕事を全然していない』」、そして「他人の噂話好き」、である。
なかには、「オレの唯一のストレス解消は、他人のスキャンダルなんだ」、と人前で言い放つ阿呆までいる。しかも、日本を代表する機関の高級官僚であるのにもかかわらずだ・・。まったくもって、知的レベルを疑ってしまう。
彼らが良く集まる宿舎、レストランでの話は聞きたくなくても耳に入ってくるが、まあまあ、本当に情けない・・・。「○○さんのところは夫婦仲がうまくいってないらしい・・」、「××女史は○△さんにアプローチしている。これは不倫だ」、「某政府機関の○×さんは、昔、彼女(スチュワーデス)振られて以来、それがトラウマとなって恋愛できず、いまだに独身。どうもホモらしい・・・」、などなど。まったくもって、どうなってるんだろう??
インテリの名を恣にしている人達が、そんなことで本当にいいのだろうか。いまだに、東チモールから、彼らに関するいろいろな批判が聞こえてくる。いかに単身赴任で、これといった娯楽がなくて、ストレスの多い仕事、であるとはいえ、もう少しなんとかならないものだろうか?そういう人達が、豊富な国際経験を活かして大学の先生になったり、国の代表として在外事務所の所長とかになったりするのは、全くもって不安なのである。
立派な仕事をしている人がたくさんいるのだから、国際エリート官僚の品位を問われるような言動は厳に慎んでいただくようにお願いしたいものである。
2001年2月17日 |
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多くの発展途上国において、田植え、収穫等の農作業はご婦人の仕事である。耕起、土木作業などの重労働は男が担当する。しかし、出面賃などは男女同額である。 |
カンボディアに来る際に、成田空港で文芸春秋を購入した。そのなかに、東京学芸大学の山田昌弘助教授が、「警告!専業主婦は絶滅する」という論を展開していた。
この中で氏は『稼ぎのない妻はいまや夫の「不良債権」である』、『専業主婦の夫は負け組!?』・・、など、綿密な現状分析に基づいて、専業主婦を「よし」としている日本社会の将来に対して警鐘を鳴らしている。たしかに周りをみても、「子供のいる専業主婦家庭」と、「子供のいない共働き家庭」(古い言葉で言えばDINKs)では、経済力の差が歴然としている。 しかし、一般的にこのあとに必ずでてくる反論には、「母親が家にいないと・・」、「専業主婦は日本社会では伝統的な・・」、のような言葉が並べられてきた。要は「妻・母親が外にでて働かなくてもいいくらいの収入を得ることが、いわば『男の甲斐性』、とされてきたのである。 |
男は外で稼ぎ家族を養った。女は家事を一手に引き受け、子供を育てた。高度成長期は、収入も右肩上がりで人手不足だった。それでも女が仕事について「ありあまる仕事を消化する」よりも、「男が女の分も、モーレツに働く」ことを日本人は良しとしてきた。その後オイルショックや、就学率の向上、女性の社会への進出にともなって、「共働き」世帯が増えた。それでも、男は「おまえが働かんでも・・」と、女が働くことは「自分の甲斐性がないからではない」とも言わんばかりで、多くは、家事や育児を手伝うこともしなかった。
ところが、この不景気(いや、これは不景気ではなく、本来の姿だと私は思うのだが・・)にあって、もはや「専業主婦を食わせるだけの甲斐性のある男」は少なくなっている。「家計が苦しいから、みんなで働こう!」というのが、恥ずかしくもなく、当たり前の時代なのだ。
カンボディアの高級官僚の給料は月20ドルがいいところである。生活するにはその10倍以上の金が必要なのだ。そんなオヤジが「おまえ、働かんでもいい」などと悠長なことをいっていたら、家族は「のたれ死に」だ。おしなべて、主婦はなんらかの商売をし、子供達も小銭を稼いで家に納め、そして月200ドルの収入を得ているのである。
さて、私の会社は建設コンサルタント会社である。私自身は海外事業部に所属し、次長を務めているが、1年の6〜8ヶ月は海外にいて、7〜9ヶ月は実務(技術の仕事)に従事している。陰では、「部を管理する要職にありながら、海外に出払っていて大丈夫なのか?」との声も聞かれる。私は「十分」とは言い切れずも、「こと足りている」と考えている。そのための「モバイル」であり、そのための「ペーパレス」でもある。(理解と能力ある上司と部下に恵まれていることが第一であるが・・)
しかし、他部の多くの総括管理職(部長、次長)は、実務を持たず、いわば「専業管理職」に徹している。一定年齢になれば、「実務から離れ営業(仕事取り)に徹するのが役割」と考えている職員も実に多い。
「右肩あがり」の時代なら良かったのである・・。給料の安い若手に目一杯稼がせて、給料の高い「指導者」は「営業・管理・指導」に徹する・・・。 ところが、もう、そんな余裕はないのだ。少なくとも自分の給料分は稼がないと・・・。 逆に若手にも営業力、技術力、協調性等が強く求められ、融通の利かない「専門バカ」は疎ましがられるようになってきた。
技術者一人当たりの年間売り上げが5,000万とかいう会社がある。経費込みの発注単価は平均でも月額250万円程度。12ヶ月従事してやっと3,000万である。それなのに5,000万とかいうのは、その分「掛け持ち」するわけで、下請けとか外注を使っているということである。しかし、今後この受注・業務消化スタイルを継続していくことは非常に難しい。むしろ、2,000万でも成立する企業を目指すことが重要なのだ。
具体的には「年俸制」である。「年功序列型」の賃金体系ではこれからのコンサル業は成り立たない。30才までの若手はこれまでの賃金体系と同様。30才での賃金(年収)をその後、定年(なんてなくてもいいが・・)までの固定給とする。あとは査定によるプラスに応じて年俸を決めるのだ。この査定方法だが、モノを売る仕事と違って、コンサル業は「儲かる仕事」と「儲からない仕事」がある。かといって「儲かる仕事」だけ受注するわけにもいかない。だから、査定は「出来高」だけではダメだ。「向上心・自己発展能力」、「指導力」、「顧客の人気・信頼」、「技術的希少価値」、「会社に対する忠誠心」などが加味されるべきだろう。むしろこうした項目の方が重要である。「こなすだけの仕事」なら、外注でもこなせるのであって、むしろそういった(こなすだけの)人材を抱えることの無駄の方が大きいかもしれない。
技術を武器とするコンサルタントは、常にその武器に磨きをかけなければならない。そしてその武器は、使わなければたとえ「名刀・正宗」であっても、「維持費のかかるお荷物」でしかなくなる。有能であればあるほど、効果があればあるほど、使わなければならないのだ。ましてや、40代の優秀な技術者を事務屋にすることなど私には考えられない。
2001年2月25日 |
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ふと思い立って、私のこれまでの渡航経歴を「洗い出し」、まとめてみた。 6月1日現在、業務で2週間以上訪れた国は14ヶ国、出張期間は延べ2,185日である。以下に足跡を時系列的に列挙した。
2001年6月1日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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日頃大変お世話になっている某ゼネコンの海外事務所所長様より、「先日、子供のクラスで川柳作品が親に配られました」、というメールいただきました。父の日のすぐあとのことです・・。そのご子息の作品はというと・・・、 「ちち 出張 家族のびのび お部屋が広くて幸せだ」 「人前で パンツとTシャツであいさつしないで 父さん出て行って」 「母はカラオケ 姉ちゃんお泊り 僕ファミコン 父出張で皆ハッピー」 「ゲップとへ エレベーターですんなよな 臭いんだ普段でも」 「食事中ビールとタバコとゴルフと自慢話しは止めてよね」 ・・・、とあまりに見事! 拍手喝采!五・七・五にこだわることなく、字余りもあまりに上手! すばらしい息子さんじゃないですか・・・、いや、ほんと。 メールからは、「寂しい父」の姿などひとつも感じられず、ほのぼのとしたサザエさん的家庭の暖かさを感じたのでした。えらくかっこいいお父さんなんですよ、実際・・・。ちょっと、お父さん見直しましたよ・・・。家庭の暖かみを感じました。尊敬します。 2001年6月19日 |
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20.「開発協力「道」に学ぶこと」(国際開発ジャーナル寄稿)
本文は、国際開発ジャーナル2001年6月号コラム「He Says」への寄稿文です。
著者略歴 1958年札幌生まれ。北海道大学大学院農学研究科を修了後、開発コンサルタントの道へ。専門は発展途上国の水資源・灌漑農業開発。主にアジア圏におけるJICA農業開発調査や、インドネシア小規模灌漑開発事業(JBIC)における案件形成調査等に従事。寒冷地技術や北方圏交流など、「北海道と国際協力」を自身の長期テーマとしながら、年の大半を海外で過ごしている。 開発協力「道」に学ぶこと 発展途上国の灌漑農業開発に携わって13年が過ぎた。多くの国々で多岐にわたる仕事を技術コンサルタントとして行ってきたが、最近は貧困対策に直結するプロジェクトに参画する機会が増え、改めて援助のあり方について考えさせられる。最近の印象的な出来事に触れつつ感じていることを述べたい。 最近参加した東南アジアのある農業開発プロジェクトで、灌漑施設復興計画に係る農家調査を行ったが、調査対象農家のなかに極め付きの「極貧未亡人家庭」があった。夫は3年前に病死し、妻は肺結核を患っている。娘6人の半数が肺結核、全員がやせ細って生気が無い。わずかな土地も薬代の借金のカタに取られそうで、昨年収穫した米は既に底をついている。わずかな給食費が払えず娘達は小学校に行けない。飲水は家のすぐ脇を通る「乾季には水の流れない幹線用水路」の底に穴を掘って滲み出た水に求め、薪が手に入れば煮沸もするが、大抵はそのまま飲んでいる。インフラ担当の私にとって少なからずショックだったのは、地区一番の幹線用水路が「そんなふうに」利用されていたということである。 明日にも全滅してしまいそうな未亡人家庭の窮状を知った調査団員達は「これも何かの縁」と、皆でポケットマネーを出し合い私的に緊急支援することにした。援助の方法については議論百出したが最終的に、8人家族の2ヶ月分のコメと、「収入を増やすための子豚3匹と豚の飼料(糠)」を贈ることとした。家族からは拝むように感謝され、人助けができたことを率直に喜んだ。ところが、1ヶ月後に再びその農家を訪ねてみると、残っていたのは「3匹の子豚」のみ。糠もコメもすでに無くなっていたのである。事情を訊くと、「真新しい素敵なシャツ」を着た娘が明るい顔で、「この1ヶ月間に正月がありお寺へ寄進もしたし、糠も多すぎて腐るから近所に分けたのよ」と言う。それに、壁のなかった母屋にちゃんと壁ができているではないか。コメや糠が我々の本来の意図とは違う使われ方をしたわけだ。それはそれでよかったのだと納得することにしたものの、振り返ってみて、結局その極貧家庭の「真の援助ニーズ」を的確に把握していなかったのでは、との気持ちが湧いてきたのである。 話は変わるが、数年前インドネシアの灌漑施設改修調査に従事した際、WID専門家の女性の訪問を受けた。良い機会と思い「灌漑施設改修事業でWIDをどう考えるべきか?」と訊ねると、「水路を流れる水がどのように女性に利益をもたらすかを幅広く考える、そこがスタートラインです」との答えであった。その後、我々の提案結果どおり改修工事が成功裡に行われたが、完了後の通水試験の際、地区内の小学生が水路で溺れて死亡するという痛ましい事故が起きた。改修の結果、見た目の水位は同じでも水路の流速が高まり水路で遊ぶことの危険が増したのである。我々は、水路改修によって「倍の量の灌漑用水を得て喜ぶ農民達」の姿を思い浮かべながら改修計画を立てたわけだが、水路で遊ぶ危険に対する警告を発することについては思い至らなかった。そのとき、私は以前のWID専門家の言葉を思い出した。予想外の様々なインパクトを与えるのがプロジェクトの側面でもあるのだ、ということを。 以上の経験が示唆していることは、援助の基本である「開発ニーズの把握」と「開発の影響の判断」を適切に行うことはそう簡単なことではない、ということである。我々開発コンサルタントは、プロジェクトの構想段階から、計画、設計、施工、維持管理運営に至るプロジェクト・サイクル全体に直接かかわり、しかも常に開発最前線に身を置いている。即ち開発協力の要にあり開発の成果に大きな影響力を及ぼし得る責任ある立場にいる。したがって、所与のTORをこなすだけで事足れりとせず、いかに開発が成功させられるか、援助効果が発揮できるか、を真剣に追求する姿勢を保つべきである。開発協力の「道」はずいぶん奥が深い。極貧家庭の和らいだ表情と、子供たちの明るい笑顔に触れ思いを新たに仕事に取り組むとき、発展途上国への開発協力とは自分の人生をかける価値のある全人格的な仕事なのだ、としみじみ思う。そして、援助される側から学ぶことも多く、開発協力は自分自身を高める「道」でもあるのだと感じるのである。 2001年6月27日 |
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