ただいま出張中 

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Since April 17th, 2000 / Last Update March 14th, 2003


4.未亡人と豚と夢の菜園のその後 in Takeo

 

カンボジア入りして最初の週末の今日、1年半ぶりにタケオを訪れた。今回の仕事とはあまり関係はないが、やはり気になる人々がいる。だから、カンボジアに来て何を置いてもまず訪ねたかったのがタケオだった。

 

朝8時にプノンペンを出て、国道2号線を南下してまず驚いたことは、「道が良くなったこと」。今年初めまで工事が行われたそうだが、本当にいい道路になっていた。でも、道路を走るものは一緒。

相変わらずのバイク多人数乗り。どこの国でも見られる光景だが、バイクタクシーの発達したカンボジアでは、とくにこんな4人乗りがよく見られる。「バイクってこんなに積めるものなのか」って思う。最後尾のおねえさんなんか、左半身が完全にシートからはずれてるし・・。右手と右臀部と腹筋で支えているようなもの。一方、運転手はお尻がほとんどサドルの先っぽに引っかかっている感じ。いやしかし、良く走りますな。

 

タケオに着いたのは午前10時すぎ。思ったより早く着いた。まずは1年半仕事をした水資源気象省の事務所、というよりそこに隣接する「夢の菜園」に向かった。タケオは連日の雨でどこも水浸し。2号線の良さとは対照的な「ぼこぼこ」の市内道路にもまた驚いた。

水資源気象省の事務所に着き、おそるおそる裏の圃場に行くと、「荒れ果てた菜園」がそこにあった。一昨年の2月に最後に来た際にカウンターパートにお願いした看板だけが妙に立派だった。

「Friendship Demonstration Farm」、JICA Study Team, Feb. 2002と書かれた看板。今日初めて見た。

カウンターパートのKarona氏に依頼し、50ドルを置いて帰ったのだが、彼はプノンペンで看板を作成し、タケオまでバイクで運んで立ててくれた。この展示圃場の運営をしてくれたソバナリ嬢にも事前にカロナ氏から連絡してもらっていたのだが、少し早く来たせいか彼女は現れなかった。せっかく六花亭のおかしを持ってきたんだけどな・・。

 

一見して変わり果てた夢の菜園。ただ、中に入ってよく見ると、パパイヤ、オクラ、ニラ、トウガラシ、ナス、キュウリ、ヘチマ、トウガン、タロ、キャッサバ、トマトと、以前と変わらず多くの種類の野菜が植えられていた。

 問題は、菜園を管理する農家を雇用する余裕がないことだろう。我々のころは毎日1ドルで農家のオッチャンを雇用して、いつもきれいに整備していたから。

 展示圃場としては寂しいが、彼らはさらに拡張してピーマンなども植えていた。

 

 

展示圃場をあとにした我々は、調査期間中滞在していたタケオのゲストハウスに立ち寄った。「ビートたけし似」のマダムもご主人も元気そうだった。息子はこの日プノンペンに出かけていていなかった。なんでも、週末はプノンペンの学校に通って経済を勉強しているとのこと。

 マダムに握手を求めると、洗濯で手が濡れていると手を引っ込めた。僕はその手を引っ張って握手をした。

 ゲストハウスの看板には、「インターネット、e-mail、コピー、カラーコピーと書かれていた。よく働くマダムだし、商才もある。

 なんか、「タケオの母」みたいな感じなんだな・・。もっとも年齢は自分と大して変わらない(ひょっとすると年下かも・・)のだろうけど。まだ何度もここに来るだろう な、カンボジアに来るたびに。

 

 

ゲストハウスを出てから我々が向かったのは、日本人Mさんの家。このMさんはカンボジアPKOの一員として参加した自衛隊の元隊員。北海道の恵庭出身だ。我々が2年前にタケオに滞在している際に、偶然彼の経営する商店に買い物に行ってその存在を知った。PKO時代、赴任先のタケオに住む現在の奥さんと結婚し、そのままここに残ったのだ。こちらでは、当時家族をタケオにおいて、日本人観光客向けの観光ガイドの仕事をされていた。

 

この日、その店を訪ねたが見つけることはできなかった。近所の人の話によると、家族を連れてプノンペンに引越したという。携帯電話番号は知っているから今度かけてみようかな。六花亭のバターサンドもあるし。

 Mさんの隣のお店でこれから訪問する「結核未亡人」へのおみやげにするビスケット詰め合わせを買った。その名も「あなた」。

すごいな、これ。どういうわけか、  

 この手の商品が東南アジアには非常に多い。

迷わずこのビスケットを買いました。価格は2ドル。

 新郎新婦がケーキカットする絵なんかが描かれていてとっても素敵っす。賞味期限とか製造年月日とか多少気になったけど、まぁ店頭にあったものだし大丈夫でしょう。密封されていたし・・。

 

 

昼食は、タケオ時代毎晩夕食を食べていた、「レストラン・アプサラ」に行った。昔の店はすでに壊され、向かい側にあったカラオケ店脇の駐車場に新たに建てられたオープン・レストラン(?)に移っていた。なつかしい「海苔スープ」と、カンボジア料理「ロック・ラック」を注文した。う〜〜〜ん、懐かしい。これを毎日毎日食べてたのだから・・。

 アプサラのマダムと息子。この息子、我々が夕食を食べているその店のなかを自転車で走り回っていた。わずか1年半の間になんか凛々しくなった。背も高くなって。

 前の店を畳んだ理由を尋ねると、両方とも借地で商売的には2カ所借りるより1カ所にまとめた方がいいとのこと。

 ここにも結構なお金を落としたんだけど、ゲストハウスとはちょっと違うんだな・・。

 でも、笑顔が本当にしあわせそうだった。どこに行っても懐かしく笑顔で迎えてくれるのは、本当に嬉しいこと。確かに、こういうふうに迎えてくれる人たちがいろいろなところにいるって幸せなこと。

 

 

タケオを後にして、我々は現場に向かった。国道3号線を渡って現場に入っていく。ADBが建設したラテライト道路は、当時は時速80キロで走ることができたのだが、すでにこっぴどく傷んでいて、時速20キロがいいところ。バイクにどんどん抜かれていく。改めて「自立発展性」、「持続的開発」の難しさを感じた。1キロ100万円でできる道路。ブータンの10分の1のコストなのに、その維持管理もままならない。難しい問題だ。

 

結核未亡人の家があった「Ta Phem」に着いて、未亡人宅を探したがなかなか見つけられなかった。一旦通り過ぎ、徐行しながら戻りながら、一軒一軒目を凝らして見た。そして、「ここじゃないかなぁ」と思われる家を見つけ、居合わせた人に訊いた。

 

「あの家に夫はいるか?」

「いや、いない。あそこは女だけの世帯だ」

 

水路の反対側にあるその家のそばに立っていた娘に、女主人を呼んでもらったところ、出てきたのはまさしくあの「結核未亡人」だった。

 

満々と水が流れる水路に入って我々の方に来ようとする未亡人を制止して、少し離れた橋を渡って家を訪ねた。私たちの方に歩み寄り両手を顔の前で合わせて挨拶。言葉は全然わからないけど、彼女は自分たちのことを覚えているし、お互いに「親近感」を共有した。

 

 未亡人の着ている服。前回2002年2月12日に来たときと同じ服なんだな(http://www.hassamugawa.com/khmer29/)。

でも、1年半前よりは血色も良くて表情も明るかった。

 少し老けた感じはしたものの、笑顔で元気そうな様子を見て安心した。5人の娘はすでに2人が結婚し孫もいて近所に住んでいる。結核は相変わらずのようだが、病院から無償で支給される薬をもらい、水田も手放さずにそこそこやっている様子。庭先にはキャッサバなども植えていて、前よりは良さそうにも思えた。

 

豚のことを訊いた。

見ると、小さな子豚が一匹。

 

「あの豚はどうしましたか?」 

(「三匹の子ぶた大作戦」、「その後の三匹の子豚」、「その後の子豚」参照)

 

我々が渡した三匹の子豚のうち、まもなく死んだ一匹を除く2匹は今年売って食料などを買ったそうだ。そしてまた子豚を一匹買ったのだという。

 

I谷が言った。

「これでいいんですよ。彼女は豚を育てて売ってお金になるということを経験した。そして一匹の子豚を自分で買った。三匹は無理だけど、一匹なら育てられると考えて一匹買ったんですよ」

 

なるほど。

 

  未亡人が自分で買った新顔の子豚。豚を飼ったことがなかった(というか買えなかった)貧困農家が、できる範囲で現金収入を得る方途として続ける一匹の子豚飼育。大規模な灌漑開発計画を生業としている自分たちの、「顕微鏡サイズ」の「遊び」、「自己満足」的な試みだったが、それでも随分学習した。この試みをベースに、ブータンの開発調査では70匹の子豚を農家に配ったが、「あまりにも配布先農家が遠くてアクセスが悪く、モニタリングが十分にできなかったという反省点を残した。耐えることなく学習はつづく・・・。

 

箱入りビスケット「あなた」を渡して我々はプノンペンに向かった。

 

これから3ヶ月間、何度もまた来よう。

ただの調査だったけど、偶然でも出会った人たちと、我々の実施した調査、計画。その後の状況を見極めながら、少しでも今後の参考にできれば・・。

 

調査とは直接関係のない、「三匹の子豚作戦」、「夢の菜園」。でも、十分に意義のある行動だったと、改めて確信した。

 

2003年10月19日